宇納間地蔵菩薩は、今を去る千二百有余年の昔、奈良朝時代天平勝宝年間の名僧行基菩薩が、一刀を刻する毎に三礼をされつつ彫刀を揮われた、一刀三礼の霊佛と伝えられる。 その敬虔な姿を思い浮かべるとき、地蔵菩薩の御形相も感一入深きを覚える。

 平安朝の末期、天台の僧・正岸僧都が諸国行脚の際、日向路を巡錫し、宇納間村市木の里一寺を建立、梅花山宝蔵寺と号し、地蔵菩薩を御本尊として祭祀された。 これが宇納間地蔵菩薩の縁起である。

 爾来御本尊延命地蔵菩薩は、地区民の信仰を集めていた。 古記録によれば当時の境内は八町四方とされており、堂宇の宏壮さや輪奐の美も想像に難くないが、天正六年(1578年)切支丹信者として有名な、豊後の大友宗麟が日向に侵攻した際兵火に罹り、堂宇は焼失したが、御本尊は山巓に飛在して御安泰であった。
 このことから庶民の信仰は愈々深く、御堂を建立して祭祀を篤うした。その後、元禄元年(1688年)旧地に堂宇を再建して移奉した。

 星移り歳変わって百十余年、光格天皇の御宇、徳川第十一代将軍家斎の享和二年(1802年)、延岡藩内藤政韶藩主の砌、偶々江戸市中に大火が起こり、藩邸も将に類焼の危殆に瀕した際、剃髪暁山と号されていた前藩主政脩公が神佛に祈誓をこめれた処、忽然として屋根に異僧が現れ、古記録には、『水を注ぐこと大雨の如し』とあり、遂に鎮火して藩邸は類焼を免れた。
 公の喜びは一方ならず、直ちに異僧の所在を八方尋ね求められたが、発見することができなかった。 公を初め藩臣一同、感謝の念と共に奇異の感に打たれたのであった。
 然るにその夜、公の夢枕にかの異僧が現れ『我が領なり宇納間の市木地蔵なり、切なる祈願により防火したり』と告げ給うた。 夢覚めて公の感激措く能わざるものがあった。 公は帰国後、市木地蔵に親拝、家紋「下り藤」を寺紋として授けられ、文化十二年(1815年)秋には地蔵堂を再建し、御供田として一反二畝二十八歩を献納された。
 やがてこのことが幕府にも伝わり、徳川の家紋「三葉菱」の使用を許され、尚畏き辺りよりは、綸旨御下賜の栄に浴するに至った。
 その後、代々藩主の親拝、或いは代参が引き続き行われた。 藩主の尊信が斯くの如くある以上、領民の信仰は当然であり、やがては他藩の人々にも及び『火防宇納間地蔵 』の名は増々高く、参拝者は年を逐うて多くなり、更には交通の発達に伴い愈々多いきを加えた。
 旧正、六、九月二十四日の例祭、特に旧正月二十四日には県下は固より、遠く大分・熊本等県外各地からの参詣者は暁天から踵を接し殷賑を極めている。

 明治二十二年(1889年)藩公の建立された御堂の腐朽が甚だしく、仍ってこれが改築を企画し、同二十五年(1892年)その竣工を見るに至った。 堂宇の壮麗さは今尚人口に膾炙されているところであるが、如何せん、さしも輪奐の美を誇ったこの堂宇も、明治二十八年(1895年)旧正月七日未明、隣接民家の出火により、折からの強風によって類焼、烏有に帰し、篤信の人々をして深い驚愕と失望の淵に陥れたが、地蔵尊は一時全長寺に移奉される結果となった。 至って明治三十四年(1901年)全長寺第十二世哲英和尚の時、現在の全長寺背後の鉄城山上に地蔵堂を建立し、御本尊を安置し今日に至った。
 全長寺に移奉する以前の地蔵堂は、同町の北郷区宇納間八重の市木にあったので「市木地蔵」とも称した。
 往古から、宇納間村にあった曹洞宗金城山全長寺に元禄元年(1688年)村内の他の二寺を併せ、延岡藩家老花田備後守の創建により、延岡台雲寺三世各同了異大和尚を請じて開基となし、鉄城山全長寺と改称し今日に至っている。 明治四年、池の原光輪寺と合寺して現在に至る。
 爾来、八重・梅花山宝蔵寺の延命地蔵尊と、長野・玉峯山真福寺の薬師如来の両本尊は、全長寺の境外佛堂としてその祭祀をするところとなった。
 全長寺の本堂は昭和十九年(1944年)、山門は同二十四年(1949年)に竣工したものである。
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